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坂の多い街、東京。
神泉という駅に降りるのは初めてだった。渋谷の一つ手前、京王井の頭線の駅である。この駅は、名前を聞くたびに東電OL殺人事件の事を連想してしまう。駅を出ると坂の途中に出る。しばらく入り組んだ道を歩いて国道246号線、玉川通りに出た。
目黒区青葉台を目指す。この往来の激しい通りを一つ曲がると『タモリのTOKYO坂道美学入門』で氏が絶賛されていた「相ノ坂」という坂がある。今日はその坂を登ろうと思っていた。携帯していた『坂道美学入門』を開いて、場所を度々確認した。非常に落ち着いた街の中にある坂が、これほどの喧噪に包まれた通りをちょっと入った所に存在するなど、不思議で仕方なかった。
一度、坂の手前で別の道へ間違えて入ってしまうという散歩ならではのミスを犯したものの、無事に辿り着くことができた。…その坂をして異国情緒溢れるのは住宅の敷地内にある植物や、壁に絡まる蔦などのせいだろう。そして、植え込みと道路までのわずかなパディング。その幅は決して広過ぎず狭過ぎないスペーシングの妙を見せており、過度に主張しない存在感がある。この絶妙なマージンが何とも素晴らしい。いい仕事であると思う。一度上りきった後、今度は坂を下ってみた。途中から勾配が突然急になる坂を逆方向から歩いて下まで降り切ると、左には小学校があった。
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異国情緒豊かな坂の下に見つけた所縁の場所
驚く事に、坂の隣にあるのは菅刈小学校。小学生の頃に所属していたサッカーチームで、初試合初ゴールという偉業を成し遂げた記念すべき伝説の地であったのだ。当時はまだ白砂のグラウンドだったが、今ではアーバンコートになっているようだ。それ以外はあの頃と変わらない。ネットも懐かしい。
まさか、タモリ氏の絶賛する坂が、自分にとても所縁のある場所と同じであろうとは。何かただならぬものを感じた。その後、「閉鎖中」とあるのに人で賑わっていた菅刈公園から西郷山公園へと流した。公園前の旧山手通り沿いでいつも止まってるワゴンのコーヒー屋でカフェモカを飲みながら、この西郷山公園だけピークがズレたように思わせるカンザクラの見事な盛りをしばし堪能した。この公園の樹木は、一つ一つは綺麗なのだが、撮影しようと思うと、これといって特徴のあるポイントがない残念な公園である。
帰りは菅刈公園から目黒川へ出て、そのまま川べりに進み、246へ出たところでもう一度名残り推しむかのように菅刈小学校方面へと引き戻って、もう一回「相ノ坂」の傾斜を心ゆくまで愉しんだ。もう一度相ノ坂。やっぱり、いい坂だと感じる。帰りは渋谷駅まで歩く事にした。246をまっすぐ歩くだけ。…その道中、18年前にチームメイトや監督、コーチらと渋谷駅まで玉川通りを歩いた時の事を思い出していた。
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1987年のドリームチーム
あの日、興奮して鼻血が全然止まらなかったのは初試合初ゴールという快挙を成し遂げたからだけではなかった。信号待ちをしていた自分たちの横に来たのは憧れの人だった。その前年の1985年、全国高校サッカー選手権大会準決勝で埼玉代表の武南高校相手に決勝ゴールとなるオーバーヘッドキックを決めた帝京高校の室崎、その人だったのだ。ロードスターの自転車に乗っていた彼に向かって我々は「おい、あれ…」「帝京の室崎だよ!」「オーバーヘッドの室崎だ!」と囁き合った。
…東京でサッカーをする子どもにとって、「全国で一番強い東京代表の帝京高校でオーバーヘッドを決めた選手」という肩書きは、余りにも強大かつ強烈であった。誤解を恐れず断言するが、その威力たるは、一瞬でも木村和司(のFK)を忘れさせるくらいのインパクトがあった。
…まあ、それも翌1986年メキシコW杯におけるアルゼンチン代表ディエゴ・マラドーナの5人抜きドリブルを見るまでの話だったのだが。
今でも好きな歴代の帝京高校は、その1985年に島原商と同時優勝をしたこの時のチームと、現清水監督の長谷川や堀池、大榎の三羽ガラスと元ヴェルディの武田がいた清水東から決勝のスーパーボレーを決めて優勝した元フリューゲルスの前田がいた1984年のチーム、そして1987年に沢登やアデミール・サントスのいた東海大一と事実上の決勝戦を準々決勝でやって推しくもPK合戦の末に破れた、磯貝、森山、本田、遠藤、池田、飯島のいたチームである。1987年の帝京は、1994年前後のFCバルセロナ、1992年のバルセロナ五輪バスケット・アメリカ代表と合わせて、僕の中の3大ドリームチームの一つなのだ。
渋谷駅の歩道橋が見えてきた。ほんの数百メートルの間だけサッカー少年に立ち戻っていた僕は、目の前の歩道橋に足をかけた瞬間、時計を18年分元に戻した。
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