お品書き
第一回『浅草』篇
第二回『聖蹟桜ヶ丘』篇
第三回『和田堀公園』篇
第四回『権田原』篇
第五回『参宮橋』篇
第六回『桜上水』篇
第七回『大蔵』篇
第八回『門前仲町』篇
第九回『西原』篇
第十回『お台場』篇
第十一回『高尾山』篇
第十二回『分倍河原(前編)』篇
第十三回『分倍河原(後編)』篇
第十四回『渋谷区本町』篇
第十五回『初台』篇
第十六回『善福寺川緑地』篇
第十七回『九品仏』篇
第十八回『等々力渓谷』篇
第十九回『笹塚』篇
第二十回『幡ヶ谷』篇
第二十一回『代々木』篇
第二十二回『谷中』篇
第二十三回『巣鴨』篇
第二十四回『雑司ヶ谷』篇
第二十五回『明治神宮外苑』篇
第二十六回『光が丘公園』篇
第二十七回『立会川(品川区)』篇
第二十八回『高井戸・浜田山』篇
第二十九回『日野』篇
第三十回『日野橋(前編)』篇
第三十一回『日野橋(後編)』篇
第三十二回『夢の島マリーナ』篇
第三十三回『京王永山(前編)』篇
第三十四回『京王永山(後編)』篇
第三十五回『根津』篇
第三十六回『石神井公園』篇
第三十七回『表参道』篇
-----------------
「アードマンスタジオ展」レポ
極私的蔵出し写真室
極私的リンク集
サイトマップ
表紙に戻る
.
第三十八回 冒険の始まり、旅の終点、そして車窓
京王多摩センターにはいずれ行ってみようと思っていた。町自体に思い出の場所があるわけではなく、駅のホームにしか降りたことのない場所。しかし、ここは切っても切れない思い出の場所だった。どうせ行くなら夏にしよう、と考えて、この冷夏にあって貴重な「晴れた休日」に出かけてみた。京王線で幡ヶ谷からは300円でおつりが来る、意外なほど距離を感じさせない場所だ。
街へ出る、ということは子どもにとってそれ自体がすでに旅であり、冒険なのかも知れない。もしそれがちょっとした「遠出」なら、大袈裟にいえば「二度と帰らないかもしれない旅路」くらいに受け止めることだってできるかも知れない。吉行淳之介に言わせれば向こう三軒のタバコ屋までの用足しでも立派な「旅」になる。
両親が共働きだった自分にとっては帰宅後から晩御飯までの時間が毎日の「旅時間」だった。カバンを置いて家のドアを閉めた時が旅の開始となり、町の至る路地裏が冒険となった。旅は一人の時もあれば二人の時もあった。「仲間」は出かけた旅先で見つけるもの。これが自分のルールだった。勿論、それは幼稚園の友達と遊ぶ約束をしていない日に限ったルールではあるが。
タナカシンスケ、という同い年の旅仲間と出会ったのは、幼稚園に上がって間もない頃のことだった。どういうきっかけで出会ったのは、さすがにもう覚えていない。何時の間にか友達になっていたという、子どもにはよくあるパターン。具体的に何をして遊んでたかすら定かではないが、旅連れにできるのは彼だけだったのは確かだった。
初めての旅をしたのも彼が一緒だった。
1977〜8年当時、京王帝都電鉄の終点はまだ多摩センターまでだった。
いつものように2人でブラブラと町を旅していた僕らに壮大な旅の話を持ちかけてきたのは小学3年くらいになる男の子だった。「タダで電車に乗らない?」
似たような年格好の少年にこんな言葉を掛けられたら「乗らない」手はなかった。僕らはちょっと緊張しつつ、幡ヶ谷駅の改札口を大人にまぎれてくぐり抜けていた。走る電車の車窓から見た多摩川の景色は、確かに壮大な冒険であることを教えてくれていた。当時の終点、だった京王多摩センターに到着したのはすっかり日も落ちた夜7時過ぎだったと思う。駅のホームの最奥にある駅長室の手前のベンチに腰を掛けた僕らは、この旅の提案者の父親が迎えに来るのを待っていた。そして、彼だけがこっぴどく怒られていたのを尻目に、気持ちは早く帰ることを望んでいた。
ランニング姿で鍋をつついていた父は「こんな遅くまでどこ行ってたんだ?」としか訊かなかった。
25年ぶりくらいに京王多摩センターに来た。駅正面からまっすぐ伸びる道の先にはパルテノン多摩という公園がある。まるで東京ビッグサイトの階段を彷佛とさせるような階段を登り切った上だ。夏の晴れた日には「試練」としかいいようのない階段。
ここへ行く前にスターバックスでアイスカフェモカを飲んでゆくことにした。左手には矢庭にサンリオピューロランド。片や東京ディズニーランドのためだけにあるようなJR舞浜駅とは異なる不思議な感覚。駅前だけで買い物が事足りてしまいそうな店の数々。イトーヨーカドーがある、というのも郊外チックさを演出しているポイントではないだろうか。地価の高い繁華街には存在しないからである。
更に「ディッパーダンアイスクリーム」。まさか多摩センターで見るとは思わなかった。『湘南グラフィティ』(吉田聡/大都社)の中に登場する憧れのチェーン店だ。そしてそびえ立つ住宅。多摩ニュータウンというのは、やっぱりこういう雰囲気でしょう。人工的に作られた公園内の池の前でトンボを観察しながらのんびりアイスカフェモカを飲んでいられるのも、自然があって当たり前の郊外そのものが、都会暮らしの自分に、「嘘の中の実物」を感じさせてくれるからなのだと思う。